2013年06月10日
橋の下世界音楽祭
金曜日から豊田大橋の下で開催されていた『橋の下世界音楽祭』

土曜日は『ほたる祭』だったし、ちょっと疲れていたけど、『出校日ミーティング』と同じように行政の協力が得られず、すべて自力で開催しているイベントなので、応援するためにも千秋楽の昨夜、頑張って終了直前に観に行ってきました。

自力イベントを応援しようと、あの謎のトゥクトゥクも出動していました。

オーナーさんは屋根の上

高校時代、自分たちの音楽を発表したいと仲間たちが集まりコンサートを企画した。
場所は毘森公園の東側にある弘法院というお寺の裏山。
鍬やスコップを手に裏山へ登り、地ならしをし、雑草や石を取り、ステージと客席を作った。
『小坂裏山コンサート開催!』と書いたポスターの原稿を作り、学校の印刷機を借りてビラをすり、学校内や電柱に貼って回った。(電柱に貼ることは違法)
豊田タウン(現在のヴィッツ)にあったレコード店の店長がコンサート用のアンプ、マイクなどの機材を貸してくれ、近所の家や豊田警察署にもコンサートの開催を伝え、あとは当日が晴れることを祈るばかりだった。
忘れもしない昭和48年9月23日「秋分の日」、我々の初ステージを祝うかのように雲ひとつない秋晴れだった。
商店や電柱にポスターを貼った甲斐もなく同級生たちが十数人やって来ただけだったが、その同級生たちの前で緊張に足を震わせながら必死に歌った。
やがてコンサートが始まって小一時間ほどたったころ、「コンサートを中止するようにと豊田警察署から電話がきた」と弘法院のお坊さんが言ってきた。
「うるさい!やめさせろ!!」と近所の人が警察に苦情の電話をしたらしい。
「そんな・・近所の人にも了解してもらっていたし、警察署にも行って許可を得ていたはずなのに・・」
その時応対に出た警察官は、高校生の申し出など「そうかそうか、わかったわかった」と、適当に聞き流していたようだ。
警察からの命令とあってはどうしようもない。悔し涙をこらえながら後片付けをした。
あれから40年。
当時の仲間たちの中で、今でも音楽を続けているのは私だけだろう。
『継続は力なり』と言うが、継続することは本当に難しい。
だからこそ、自力でイベントを開催しようとする人たちを応援せずにはいられない。

土曜日は『ほたる祭』だったし、ちょっと疲れていたけど、『出校日ミーティング』と同じように行政の協力が得られず、すべて自力で開催しているイベントなので、応援するためにも千秋楽の昨夜、頑張って終了直前に観に行ってきました。

自力イベントを応援しようと、あの謎のトゥクトゥクも出動していました。

オーナーさんは屋根の上

高校時代、自分たちの音楽を発表したいと仲間たちが集まりコンサートを企画した。
場所は毘森公園の東側にある弘法院というお寺の裏山。
鍬やスコップを手に裏山へ登り、地ならしをし、雑草や石を取り、ステージと客席を作った。
『小坂裏山コンサート開催!』と書いたポスターの原稿を作り、学校の印刷機を借りてビラをすり、学校内や電柱に貼って回った。(電柱に貼ることは違法)
豊田タウン(現在のヴィッツ)にあったレコード店の店長がコンサート用のアンプ、マイクなどの機材を貸してくれ、近所の家や豊田警察署にもコンサートの開催を伝え、あとは当日が晴れることを祈るばかりだった。
忘れもしない昭和48年9月23日「秋分の日」、我々の初ステージを祝うかのように雲ひとつない秋晴れだった。
商店や電柱にポスターを貼った甲斐もなく同級生たちが十数人やって来ただけだったが、その同級生たちの前で緊張に足を震わせながら必死に歌った。
やがてコンサートが始まって小一時間ほどたったころ、「コンサートを中止するようにと豊田警察署から電話がきた」と弘法院のお坊さんが言ってきた。
「うるさい!やめさせろ!!」と近所の人が警察に苦情の電話をしたらしい。
「そんな・・近所の人にも了解してもらっていたし、警察署にも行って許可を得ていたはずなのに・・」
その時応対に出た警察官は、高校生の申し出など「そうかそうか、わかったわかった」と、適当に聞き流していたようだ。
警察からの命令とあってはどうしようもない。悔し涙をこらえながら後片付けをした。
あれから40年。
当時の仲間たちの中で、今でも音楽を続けているのは私だけだろう。
『継続は力なり』と言うが、継続することは本当に難しい。
だからこそ、自力でイベントを開催しようとする人たちを応援せずにはいられない。
Posted by しょうのみ at 00:50
│日記