2008年12月31日

奇跡の旅 最終回

翌朝、西タンビングウェイ村小学校の校長先生の妹さん、ヤダヨさんと一緒にジョニーのタクシーでエーヤワディに向かった。

検問所で車内の二人の女性はとても緊張している様子だったが、ジョニーはこの前と同じ調子で通行許可証のコピーを軍人に見せていた。その時、私は見た!ジョニーが軍人に現金を渡すところを。ワイロだ!この前、笑顔で手を振ってくれた若い兵士たちは、今回はよそ見して気づかないふりをしている。この前は通行許可証の正本で正々堂々と検問所を通過したが、今回は奥の手を使ったか・・。
何もなかったようにジョニーは車を発進させた。
「なっ!また100ドル払って通行許可証を取るより簡単だろ?」
「かなわんなぁ・・(苦笑)」
でもタクシー代300ドルはまけてくれなかった。

校長の妹さんの道案内で、この前、我々がバイクに乗り換えた所よりさらに数キロ先の農道の前で車を停めた。



妹さん手作りの弁当を渡し、ジョニーにはここで待っていてもらい、たまたま通りかかった「トラジー」という乗り物に乗り換えて農道を進んでいった。

トラジー






トラジーも通れない細い道になり、あとは学校まで歩く。
「あっ!日本人だ!学校をつくったおじさんだ!」 チビっ子たちがぞろぞろついてくる。



あった!西タンビングウェイ村小学校だ!巨大サイクロンにも負けずにしっかりと建っていてくれた!






子供たちと一緒にサッカーやバドミントンをして遊んだ。



また通行許可証を発行してもらう時のために、やっぱりUPしておこう。



北マヤングウェイ村中学校






誰かがギターを持ってきて、生徒たちの真ん中で日本の歌を歌わされた。



隣の木造の小学校。今度は私たちの学校を作って~!      ( ̄□ ̄;) んが~!!



帰り際、先生から「何か子供たちにお話を」と頼まれたが、ガラじゃない。
自分の子供の頃を思い出しても、学校へ来た偉い人たちの話なんか何もおぼえていない。
元気でな!また会おう!!それだけでいい。


ヤンゴンへの帰り道、客待ちをしているバイクのお兄さんに「学校あったよ!ありがとう!」



エーヤワディの大地に沈む夕日。



帰り道を満月が照らしていた。



♪ 月が~出た出た~月が出た~ホ~イホイッと

「ミスター平野。なんだその歌は?」
「ベートーベンの『月光』第二楽章だ。知らないのか?」
「そうか。日本人は教養が高いんだな」
「まあな」


                             



本日をもって「奇跡の旅」を終了させていただきます。
最後までご愛読くださいまして、ありがとうございました。

それでは、よいお年をお迎えください。  

Posted by しょうのみ at 00:30旅行

2008年12月30日

奇跡の旅 16

身体がだるいが熱はない。咳も出ない。何とかタチレイには行けそうだ。
ミャンマー行きのチケットが取れるのかどうか直前までわからず、急な旅立ちだったから風邪薬など用意していなかった。っていうか、まさかこの暑い国で風邪をひくとは思わなかった。

ホテルのレストランでバイキング形式の朝食を食べているとボーイがやってきて電話だという。
誰だろう?トゥザさんか?何か不都合でもあったのか?と思いながらカウンターの電話に出ると、相手は例の「キャンセルしなさい!」と私に命令してきた旅行社に勤めるヤダヨさん(仮名)だった。
実は彼女は'06年3月に初めてミャンマーを訪れたときにボランティアでガイドをしてくれた日本語もできる人で、その後も学校を作るまで私がミャンマーへ来るたびにガイドをしてくれていた。
その後、彼女が旅行社に就職したので今回はビジネスとして私のガイドを頼んだわけだが、バンコク空港の閉鎖で私が来られないと思い「早くキャンセルしなさい!」と私に強硬に催促してきたのだった。

「昨夜エーヤワディに行ってきたんだって?どうだった?」
「小学校はなくなっていたよ」
「何言ってんの?あなたの学校はちゃんとあるよ!」
「へ!?」
「ったく、どこへ行っちゃったのよ!全然違う学校へ行っちゃったんでしょう」
「あっ・・・そう・・・。で、でも、今からタチレイへ行くし、戻ってくるのは土曜日だから、もう一度エーヤワディへは行けないよ」
「そうか、残念だね。じゃあ、戻ってきたらまた連絡して」

・・・というわけで、あの木っ端微塵に吹き飛んでしまった学校は西タンビングウェイ村小学校ではなかったらしい。しかし、私が寄付した学校ではなかったにせよ、誰かが寄付した学校が手抜き工事のせいでなくなってしまったことは事実だ。
私はこのシリーズで海外支援を呼びかけているわけではないし、もし支援をしたいとお考えの方がおられても、こういうことがあるのでくれぐれも慎重に計画を進めていただきたい。


8時にトゥザさんとジョニーが迎えに来た。もちろん二人はこのときが初対面である。
「昨夜行った小学校は俺が作った学校ではなかったらしいよ」
「そうか。それはよかったな」
ジョニーの運転するタクシーで空港へ向かいながら、昨夜の大冒険をトゥザさんに話して聞かせた。

空港へ向かう道路にある案内板



そして二度目の奇跡が起きた。
空港の国内線チェックインカウンターでトゥザさんがしばらく話しこんでいたが、がっかりした様子で私のほうへ戻ってきて、こう言った。
「タチレイ行きの便がキャンセルになりました」
「へ!?」
なんと乗客が少ないから欠航になったという。
ミャンマーの国内線航空会社は乗客が少なく採算が合わないと、さっさと欠航を決めてしまうものらしい。

国内線チェックインカウンター



・・・というわけで、帰国までのスケジュールが一瞬にして消えてしまった。
まったくなんということだ!
もし、バンコク空港の閉鎖でチケットをキャンセルしますか?と日本の旅行社から問い合わせがあったときに、あきらめてキャンセルしていたら・・
もし、ヤダヨさんからの「キャンセルしなさい!」との命令に従わず、ミャンマーでのスケジュールをキャンセルしなかったら・・
もし、ヤンゴンの空港でジョニーたちと出会わなかったら・・
もし、プロジェクト遊にミャンマーに建てた学校の写真を掲載していなかったら・・
もし、ジョニーたちにその写真を見せていなかったら・・
もし、サガインのジャパンハートの病院にエイズの姉妹が入院していたら・・
もし、翌日、私がすぐにサガインからヤンゴンに戻らなかったら・・
もし、パンダホテルの支配人とジョニーが知り合いじゃなかったら・・
もし、支配人が私がヤンゴンに戻っているとジョニーに言わなかったら・・
もし、タチレイ行きの国内便が欠航にならなかったら・・
これらのどれひとつが違っていても、今、こうはなっていない。
この瞬間、私は確信した。
何かが・・人々が「神」とか「運命」とか呼んでいる人知を超えた意志のようなものが、私を学校へ学校へと引っ張っていこうとしている。
ラッキーな事もアンラッキーな事も、すべての出来事が私の背中を押していく。

タチレイにいるエイズの姉妹に、もし私が会えたとしても何の役にも立てない。
ここは私は支援者として寄付金を渡して、トゥザさんたちジャパンハートにがんばってもらおう。
私はエーヤワディの子供たちに会いに行こう!

ジョニーの携帯に電話して呼び戻した。
「明日もう一度エーヤワディに行くぞ!もう一度通行許可を取ってくれ」
「そんな事もあろうかと思って、ちゃ~んとコピーはとってあるさ」
「さすがゴロツキガイド!抜け目はないな。でも通行許可証のような公文書をコピーなんかして大丈夫なのか?」
「まかせとけ!ノープロブレムだ!ハッハッハ~!!」



・・・つづく  

Posted by しょうのみ at 01:04旅行

2008年12月29日

奇跡の旅 15

「まさか・・・そんな・・・なんで・・・」 全身から力が抜けた。  言葉もなかった。

急遽、村人たちが造った校舎



がっくり肩を落とし、ひどく落胆している私を気遣ってジョニーが言った。
「もうひとつお前が造った学校があるんだろう?そっちを探しに行こう!」
そっちもなくなっていたら・・・見たい気持ちと見たくない気持ちが入り混じりながらも、ジョニーに促されて探しに出かけた。
私を元気づけようとするかのように、ジョニーは通りかかる人たちに学校の場所を聞き続けた。
時間はもう9時を回っていた。
「もういい、帰ろう」と私がつぶやくように言い、「そうか・・お前がそう言うなら・・」とジョニーもあきらめかけたとき、「あっちの方に学校があるそうだ」と、バイクのお兄さんが村人から聞いてきた。
「どうする?行ってみるか?」
「もう9時過ぎだ。今からヤンゴンに帰ってもパンダホテルに着くのは深夜だぞ」
「俺は別にかまわないよ」
じゃあ、これで最後だと決めて、その学校へ向かって細い農道を2台のバイクで走っていった。
乾季のミャンマーの夜風は冷たく、Tシャツ一枚の私は風邪をひきそうだった。
「突然の通行許可で今しか時間がなかったから、取るものもとりあえず出発してしまったからなぁ・・」



「あった!間違いない!北マヤングウェイ村中学校だ!!」その校舎を見た瞬間に私は叫んだ。
建っていた。壊れてなかった。私は一目散に校舎へ駆けていった。



学校の隣に住む用務員さんをつれてジョニーも追いかけてきた。
「やったぞ!とうとう見つけた!俺たちは見つけたんだ!よし、記念写真を撮ろう!」
左から、バイクのお兄さん、ジョニー、中学校の用務員さん(暗くて写ってないが、後ろに校舎がある)



用務員さんの話によると、トタン屋根が一部めくれただけで被害はほとんどなかったという。
どういうことだ?北マヤングウェイ村中学校はほとんど被害がなかったのに、西タンビングウェイ村小学校は跡形もなく吹き飛んでしまったなんて・・。だいたい、いくらサイクロンの威力がすさまじかったとしても、鉄筋コンクリート造りの校舎があんなにきれいに全部吹き飛ぶものなのか?鉄骨の柱ぐらい残っているだろう・・
ジミーとコーンの待つタクシーまで帰るバイクの後ろで私は考え続けた。
答えはひとつ、手抜き工事だ。私が受け取った見積書には鉄骨何本だのコンクリートがどれだけだのと書いてあったが、実際にはそんな材料はまったく使われていなかったということだ。

クッソ~!あいつら~やりやがったな~!!

北マヤングウェイ村中学校は村のお坊さんや村人たちが自力で作ろうとして、資金不足のため途中で工事が止まっていたものを私の寄付金で完成させたものであり、鉄骨やレンガの壁など強度を保つための工事はすでになされていた。

援助する前の北マヤングウェイ村中学校の校舎 ('06年3月撮影)






しかし、西タンビングウェイ村小学校はすべて私の寄付による新築の校舎である。
そこで不正が行われた。高価な材料は使わず、外側だけそれらしく造って残った金を横領したのだろう。
NGOなどの組織によらない個人での援助行為は、管理がゆき届かずリスクが高いということか・・
私もかつてはあるNGOのメンバーだったが、一方で会社の経営者でもあるので、当時JC(青年会議所)という青年経済人の団体にも入会していたことが災いし、社会派の人間が多いNGOの中でたびたび批判にさらされ、NGOをやめてしまった経緯がある。
個人による海外援助は騙されやすいから慎重にやったつもりだったが・・・。

ヤンゴンへ帰る道中、いろんなことを考えた。
日曜日には日本へ帰る身では裁判に訴える事もできない。
このことをブログで書くべきか・・正直に書けば「それ見ろ!」と、ボランティア活動を嫌う連中が小躍りして喜ぶだろう。
いっそ黙っていようか・・それでは寄付金を横領した奴らの思う壺だ。
一度手元から離れた金がどう使われようが私には実害はない。つらい思いをするのは劣悪な環境で勉強させられる子供たちだ。国の未来を担う子供たちの教育を受ける権利を侵害してまでも目の前の現金がほしかったのか。敬虔な仏教の国民であっても『貧すれば鈍する』ということか・・。

パンダホテルに帰り着いたのは深夜の1時半を過ぎていた。
バイクで走り回りTシャツ一枚で夜風にあたったため風邪をひいた。
明日はタチレイへ行くために8時にトゥザさんがホテルに迎えに来る。
疲れと風邪でふらふらとベッドにもぐりこんだ・・・


・・・つづく


★アンラッキー: 建設費用全額を寄付した西タンビングウェイ村小学校はなくなった
☆ラッキー   : 建設費用の一部を寄付した北マヤングウェイ村中学校は無事だった  

Posted by しょうのみ at 00:59旅行

2008年12月28日

奇跡の旅 14

ヤンゴンを出発して約4時間、ようやくエーヤワディ管区モービン郡まで来た。日はもうとっぷりと暮れていた。
さて、ここからが問題だ。実は学校のある場所を誰も知らないのだ。もちろんジョニーたちが知るわけがない。私は学校を作る前と開校式のときと2回来ているが、他人任せだったから道などおぼえていない。ヤンゴンを出発する前に、私と一緒に開校式に行った校長先生の妹さんに電話して場所を聞いたが、電話で場所を説明するのは難しいし、通行許可が突然出たもんだから同行してもらうわけにもいかなかった。
そもそも途上国のいなかには〇〇町〇丁目〇番地などという正確な住所はない。誰々さんちの近所だとか川のほとりだとかお寺の前だとか、そんな感じだから現地で人に聞きながら探すしかない。
「目印になるようなものはおぼえてないか?」とジョニーに聞かれても、開校式からもう2年近くたっており、それこそ川のほとりだとしか答えられない。
とにかくここから先は道が細くてタクシーでは無理だからジミーとコーンはここに残し、バイクのお兄さんを雇い、後ろに乗ってジョニーと2台のバイクで行く事になった。

田舎の風景などどこも同じだし、学校の形も画一的でわかりにくい。
しかも電気もなく真っ暗な農村での学校探しだ。



ここだっけ・・・いやプレートが違う



「どうやら川の向こう側だそうだ」とジョニーが近所の人から聞いてきてくれたのでボートで川を渡ることになったのだが・・・
こんな夜中に学校を見るためだけにこんな田舎までやってきた物好きな日本人を一目見ようと集まって来た村のおっちゃんたちまでボートに乗り込んできて、一大ナイトクルージングになってしまった。
「おい日本人!一曲歌え!」「歌ってる場合か!!」



これでもない、あれも違うと走り回り、3つ4つ探した挙句たどり着いたある学校・・そこには入り口の右側に木と竹で作った校舎があった。
「違う違う。ウチの学校は鉄筋コンクリート造りだ。しかも校舎は入り口の正面だ。こんな横じゃない」
しかし、ジョニーが近所の人に話を聞いたところによると、サイクロンが来る前には入り口の正面に学校があった。それは外国人の援助で建てられた学校だったが、サイクロンで木っ端微塵に吹き飛ばされてしまったのだという。それでやむを得ず村人たちで木と竹の校舎をその横に造ったそうだ。確かに入り口の正面には長方形のコンクリートの土台が残っている。
「そ、そんなバカな!だってサイクロンの直後に平野さんの学校は無事ですよ。今は被災者たちの避難所になっていて、家をなくした人たちの役に立っていますよってミャンマーから連絡があったのに・・まさか・・そんな・・・」


・・・つづく  

Posted by しょうのみ at 01:39旅行

2008年12月27日

奇跡の旅 13




これがサイクロンの爪痕か。ヤンゴンからエーヤワディへ続く幹線道路がズタズタ。
一年前は100キロの猛スピードで学校めざして走っていったこの道を、今回は穴にタイヤを落とさないようにゆっくりジグザグに走らなければならない。




土木機材も不足しているこの国では、道路の補修工事も人の手作業に頼るしかない。




外国メディアは軍事政権が民衆を強制的に働かせていると報じているが、どこにも兵士の姿は見当たらない。
唯一兵士を見たのはエーヤワディ管区へ入る手前の検問所。
車を停め、ジョニーが意気揚々と検問所の軍人に通行許可証を見せる。
「この日本人はエーヤワディの貧しい子供たちのために学校を作った人です。サイクロンでどれほど学校に被害があったか、これから見に行くところです」と、まるで自分が私の代理人だといわんばかりに誇らしげに軍人たちに話している。
もちろん軍人や検問所の写真撮影は禁止なのだが、「カメラを持っているところを見つかったら撮ったものを見せろとか、メディアカードを没収されるかもしれないぞ」と日本では言われていたけど、うっかりカメラを首からぶら下げたままだったのに何も言われなかった。
それどころか、「ご苦労様です」と上官は恭しく敬礼してくれ、若い兵士たちも「お気をつけて」と笑顔で手を振って見送ってくれたのである。
これが世界中から非難を浴びているミャンマーの軍事独裁政権の兵士たちなのか?




検問所を通り過ぎると、道はますます悪くなってきた。
コーンはせわしなくシフトレバーを動かして2~30キロのスピードで車を走らせる。
こんなにゆっくり走っていたのではいつになったらたどり着けるのだろう。気持ちばかりが焦る。


もうじき日が暮れる・・




・・・つづく  

Posted by しょうのみ at 01:03旅行