2011年06月07日

人の役に立つ

ゴミの分別収集が始まった時から、うちのゴミステーションはフェンスで囲い、収集日以外は施錠し、監視カメラまで取り付けた。
ゴミの分別を面倒くさがり、この鉄壁の管理体制を嫌がる住人は、そのころから隣のゴミステーションに出すようになった。
隣の地主さんもゴミステーションにネットぐらいは取り付けたが、さすがにうちほどの徹底した管理はできず、ゴミ出しマナーは最悪になっている。






それが、ここ数カ月このゴミステーションがずいぶんときれいになった。
うちのアパートに住む生活保護を受けている一人暮らしのオジサンが、このゴミステーションの収集車が放置して行った分別されていないゴミを仕分けしていたのだ。



もちろん誰に頼まれたわけでもなく、まったくのボランティアだ。
彼もいつか誰にも気づかれずに部屋の中で孤独死するかもしれない、無縁社会に生きる孤独な独居老人の一人である。
そんな彼が社会のひずみから生まれる放置ゴミという、誰も見向きもしない小さな問題を一人でコツコツと片付けている。
そうした行為が彼に自分の存在価値を自覚させ、生きる意味を与えている。

昨日の中日新聞に夜回り先生(水谷修氏)が「人の役に立ってみよう」という話を書いていた。



自分に自信が持てない、生きる意味がわからない君たちは、小さなことでもいいから人から感謝されることをしてみよう、と。

私が芸能人を夢見て東京へ飛び出していったのも、突き詰めれば自分の存在価値や生きる意味を見つけたかったからだ。
岡山の田舎町で、「坊や」とか「子ども」と笑われ侮辱されボロボロにされた心を救うためには、有名になって「大人」たちを見返してやるしかないと思った。
そして、食うために就職したストリップ劇場で毎日たくさんの日本人男性に体を売る『じゃぱゆきさん』たちから、自分の本当にやるべきことを教えられた。
豊田へ帰って来てからも、後継者である私の存在価値を否定し、自信を奪い、自分たちに従属させ、平野家の経済力を我がものにしようとたくらむ親類縁者たちからの容赦ない攻撃が続いた。
そんな私を守ってくれたのもアジアの貧しい人たちとのつながりだった。

そしてある日、私のボランティア活動が新聞に大きく載った。



その途端、今まで散々私を否定し見下し嘲笑ってきた連中が一斉に沈黙した。
なんという薄っぺらさ、なんというみっともなさだ。
これが人を見下し馬鹿にしてきた「大人」の正体か!?


社会貢献だのボランティアだのはケツの青いガキのセリフだと嘲笑ってきた「大人」たちの権威は今や全く地に落ちた。
社会とのつながりこそが人間の存在意味の基本である。  

Posted by しょうのみ at 14:53日記