2012年07月18日
卓話の原稿
昨日は200件ものアクセス、ありがとうございました。
「もう2日も書いてないじゃないか!早く何か書け!」という催促なのでしょうか?
決してさぼっていたわけではなく、こんな長い記事を書いておりました。
・・ということで、以下は身内同士の業務連絡になっております。m(_ _)m
毎週水曜日は豊田東RC(ロータリークラブ)の例会です。
お昼に豊田キャッスルホテルの宴会場に会員の皆さんが集まって一緒にご飯を食べながら交流を深めます。
食後のひと時、13時から30分間、会員が何かお話をする「卓話」という時間があり、今日は初めて私の番が回ってきました。
その卓話を録音しておいて新入会員の人がRCの会報用の原稿を書くのですが、これが結構大変な作業なのです。
私も新入会員の時に2年間その役を担いましたが、卓話をする人が原稿を作っておいてくれるとどんなに助かったことか。
その経験から私も原稿を書きましたので、会報委員会の人は以下の原稿をコピペして会報を作ってください。
優しい先輩だなぁ σ(^-^;)
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皆さんこんにちは。
今日は「ミャンマーの教育支援活動」と題して、各RCがミャンマーに寄付した学校や図書館を実際に見てきましたので、そのお話をしたいと思います。
まず、その前にミャンマーという国についてからお話しましょう。
(東南アジアの地図を映写して)

ご覧のとおり東はタイ、北は中国、西はインドと国境を接するインドシナ半島の一番西にある国で、『ビルマ』という古い名前の方が我々の世代にはなじみがあると思います。日本で『ビルマ』と呼ばれているのは、江戸末期にオランダ語からきたといわれています。
(拡大の地図を映写)

こちらのマグウェという町とシュウェボという町に、岡崎城南RCが寄付した図書館があります。
それと、このプロームという町には京都紫竹RCが寄付した学校があります。
あと、2005年までミャンマーの首都だった、ミャンマー最大の都市ヤンゴンの郊外には〇〇RCと△△RC(例会の卓話では名前を言いますが、クラブの名誉のためネット上では匿名にいたします)が共同で寄付した学校があります。
ヤンゴンは昔の『ラングーン』ですね。
そして私が寄付した学校は、この『ラングーン』から西へ車で4時間ぐらい行ったタンビングウェイという農村にあります。
ご存知のようにミャンマーは、あのアウンサン・スー・チーさんを自宅に軟禁した悪名高き軍部による独裁体制が長く続いてきたわけですが、昨年総選挙で新しい大統領が選出され、民主化へ大きく舵を切りました。
それを機に各国の企業が人件費の安いミャンマーへ進出してきており、日本も玄葉外相がミャンマーを訪問して経済協力関係を取り決め、現在このヤンゴンから首都のネーピードーへ新幹線を建設する計画が進められています。
(新幹線の新聞記事を映写)

これは初代の新幹線ですね。
ずいぶん古い写真を使ったものですが、しかし我々も新幹線と言えば、やはりこの車両を思い浮かべますよね。
このように人は最初の印象というのが心に深く刻まれるもので、長くイギリスの植民地支配を受けてきたミャンマーの人たちにとって、先の大戦でそのイギリス人を撃退してくれた日本人に今でもとても好意を持ってくれています。わずか1,2年で連合国に反撃され、結局は負けたわけだし、約束していたビルマ独立への期待を裏切られ、アジア解放を掲げていた日本の戦争の大義に疑いを持ったスー・チーさんのお父さんのアウンサン将軍たちも、ついには連合国側について日本軍と戦ったわけですが、それでも自分たちを抑圧し続けた白人と戦ってくれたという日本人への第一印象は今でも変わらないようです。
(メリーゴーランドを映写)

これはヤンゴンの遊園地なんですけど、電力事情が悪くよく停電するために、ほら見てください、お兄さんがメリーゴーランドを引っ張っています。
電力の安定した供給がないと、さすがの新幹線も立ち往生してしまいます。
民主化になって外国企業が進出してくるためには電気などのインフラ整備が急がれるわけですが、ここでも日本の企業が活躍するようです。
ミャンマー人の日本への信頼と期待はとても大きいようです。
(日本の中古バスを映写)


ヤンゴン市内にはこのような日本の中古バスがたくさん走っています。やれ名古屋の市バスだの名鉄バスだの滋賀観光だの富士急行だのと、日本中のバスが見られて道端に立っているだけで楽しいですよ。
バスの正面に行き先が書いてあるから、それでわかるからいいと、日本のバス会社の名前なども消さないでそのまま走ってます。日本語が書いてある方がおシャレなんですって。
(バス内の表示を映写)


こういう日本語の表示もそのままにしてあるところにもミャンマー人の日本好きが表れていますね。
それにしても、これらの中古バスもかなり傷んできているので、今回日本から新たに3000台のバスを輸入する計画だそうです。料金システムも日本のプリペイドカード方式を採用するそうなんですが、そうなると車掌さんたちが失業してしまいますが、どうなるんでしょうか?
(消防車を映写)

これも日本の中古の消防車ですね。
(営業車を映写)


ほかにも日本のいろんな会社のトラックや営業車が走っています。
(ミャンマー料理を映写)


こんな感じでミャンマーの料理は中華とタイとインドのカレーのチャンポンみたいな感じです。
(カウスエを映写)

これは米粉の麺、いわゆるベトナム料理のフォーみたいなものですね。
(セミのつくだ煮を映写)

ミャンマーの珍味と言えばセミのつくだ煮なんてのもありますよ。
(動物園を映写)


象と言えばタイというイメージがあると思いますが、実はミャンマーの方が数も多いし、今でも山から材木を運び出すなど林業の大切な労働力として働いています。
(日本人墓地を映写)




そしてミャンマーへ行ったら忘れてならない場所がここ、日本人墓地です。
先の大戦、いわゆる大東亜戦争で20万人近い日本軍兵士がこの国で亡くなりました。
戦って亡くなったのならまだしも、多くは餓死やマラリアなどに感染しての病死でした。
あの『インパール作戦』のように補給路を確保しないまま実行された無謀な作戦による犠牲者たちが眠っており、毎日、地元の方たちが墓地をきれいに掃除して管理してくれています。
(祠を映写)

日本人墓地はヤンゴンだけでなくミャンマー国内のあちこちの町にあり、田舎の方でも行き倒れて亡くなった日本兵を祀ってこのような祠が建てられています。
(祠の中を映写)

これは、その日本兵が持っていた短剣だそうです。
(マグウェの図書館を映写)



さて、前置きが長くなってしまいましたが、こちらがマグウェ第1高校に岡崎城南RCが寄付した図書館です。
岡崎城南RCの会員にキョー・キョー・モーさんというミャンマー人のお医者さんがおられ、このマグウェ第1高校はその方の母校だということで図書館の寄付が実現したそうです。
同じような図書館をほかにも4か所寄付しているそうですが、シュウェボは遠かったので見に行きませんでした。
だいたいひとつ造るのに4000ドルかかるそうです。
(記念写真を映写)

私の左が校長先生、右が教頭先生です。
(ソケヤ寺子屋を映写)

こちらはプロームという町にあるソケヤというお寺が運営している寺子屋です。
校舎を寄付してくれた日本のRCの人が来ると言うので、生徒たちがみんな道の両側に並んでのお出迎えを受けました。
寄付した京都紫竹RCとは別のクラブの会員だと言っても、そんなRC内部の詳しいことは彼らには関係ないですからね。
(新校舎を映写)



こちらが京都紫竹RCの寄付により建てられた校舎です。
日本ミャンマー友好協会が仲立ちとなり、新校舎建設のために京都紫竹RCから1万ドルが寄付されたのだそうです。
現場から学校建設に必要な費用の見積もりを出させるのではなく、このようにはじめから寄付金の額を決めておいて、その範囲で作らせるというのも一つの方法です。
しかし、それだと満足な校舎を作るには資金が足らず、現場に負担をかけさせる結果になる事もあります。
この校舎も天井と床がありません。
ミャンマーの3月から5月頃は「暑い季節」と書く暑季で、日中は気温が40度を超えます。天井を張らないと熱く焼けたトタン屋根の熱が直接子供たちの頭上に降り注ぎ、かなりつらい思いをしながら勉強しなければなりません。また6月から8月頃の雨季には毎日雨が降るので、床を張らないと足もとが泥だらけになってしまいます。
(記念写真を映写)

私の右のお坊さんがこの寺子屋を開設された方です。
このお坊さんが学校に行けない貧しい家の子供たちを集めて木の下で読み書きを教え始め、ご自身は一日2食しか食べず、毎朝の托鉢で集まった供物をコツコツと貯めては少しずつ教室を立てていったそうです。
やがて、そんなお坊さんの努力に心を動かされた市民からの寄付で校舎が造られ始め、市民と日本のロータリークラブの協力により、現在生徒数410名、教師13名の大きな寺子屋になりました。
(造りかけの校舎を映写)

こちらの校舎は資金が足らずまだ造りかけですね。
ここまで出来ていれば、あと2~30万円もあれば完成すると思うんですが、どなたか寄付なされませんか?
(先生たちを映写)


先生は市内から一般募集した高卒以上の独身女性にお願いしているとのことです。
給料は1ヶ月20000チャット(約2000円)と少ないので、皆さん学校へ行く前に早朝マーケットで野菜などを売り生活費の足しにしているそうです。
(タンビングウェイ小学校を映写)


はい!お待たせいたしました。こちらが私が寄付したタンビングウェイ小学校です。
(サイクロンが通過した地図を映写)


2007年に完成したのですが、翌2008年にこの地域の台風であるサイクロンの直撃を受けました。しかし現地の大工さんがサイクロンにも負けないように頑丈に造ってくれたため無事でした。
あの時は家を失った被災者たちの避難所としても大いに役立ちました。
(マヤングウェイ中学校を映写)


こちらは隣の村の中学校です。
先ほどの造りかけの校舎のようにこの中学校も未完成だったのですが、私が50万円寄付して完成させました。
校庭で生徒たちが椅子を囲んで座っていますが、私にここに座って日本の歌を歌えというわけです。
ちなみに、『北国の春』、『昴』、『乾杯』、この3曲はミャンマー人なら誰でも知っています。
(校舎内を映写)

このように天井と床を張れば生徒たちもいい環境で勉強できますね。
(パダウッミャイン僧院学校を映写)

そして、こちらがヤンゴン郊外にある〇〇RCと△△RCが共同で寄付したパダウッミャイン僧院学校です。
私が寄付した小学校とだいたい同じ大きさですから、私が寄付した建設資金が約1万5千ドルだったから、ここもそれくらいかなと思ったら、なんと2万2千500ドルだそうです。
寄付したこのふたつのRCは7000ドルぐらいボラれていると思います。
この学校を運営しているお寺のお坊さんの話では、ソケヤ寺子屋のお坊さんと同じように毎朝の托鉢や地元の人たちからの寄付で寺子屋を運営していたところへ、地元の教育長から日本のRCによる援助の話があったのだそうです。日系企業に勤める教育長の友人が仲立ちしたらしいです。
新校舎の建設に関しては、お寺側は「それでは、よろしくお願いします」ということで丸投げしていたのでお金のことはわからないとのことでした。
こういう援助詐欺を防ぐためには、京都紫竹RCのように初めから援助金額を決めておくというのも一つの方法ではあると思います。
しかし、そうなると先ほどもお話ししましたように必要な規模の校舎と、やはり必要不可欠な井戸まで決まった寄付金の中から作らなければならず、足らない分は学校を運営している人に負担させてしまうことにもなりかねません。
必要な物のリストを書きだした見積書を提出させたとしても、ミャンマーについて無知な日本人には水増しされていてもなかなか不正が見抜けません。そのあたりが海外援助の難しさです。
(ミマを映写)

RCによる教育支援活動の話はここまでにして、もうひとつ聞いていただきたい話があります。
この少女はミマと言います。これは10歳の時の写真ですが、今はもう12,3歳になったと思います。
両親はエイズに感染していて、お母さんはすでに亡くなっています。
ミマはタイ人のブローカーに買い取られタイへ連れて行かれて、今は行方が分かりません。
(お父さんとソーを映写)

この男性がお父さん、左の少女はミマのすぐ下の妹のソーです。
(チヤとブリーを映写)

右が三女のチヤ、左が四女のブリーです。
お父さんの話では自分たちがエイズに感染して働けないので長女のミマを知り合いに預けていたら、タイのブローカーにさらわれてしまったなどと言っていますが、いくら貧しい田舎でも子供が突然誘拐されれば騒ぎになります。騒ぎにならなかったのは、このお父さんが下の子供たちを養うために長女のミマをブローカーに売ったのでしょう。周囲の人たちもそれを知っていたから騒ぎにならなかったのでしょう。
今、ミャンマーではエイズの感染が広がっていて、それで親を亡くしたエイズ孤児たちがタイに売られていくという問題があります。
男の子は安い労働力として工場などで働かされ、女の子は小さい時は家事手伝い、13,4歳になれば売春をさせられます。最近は嫁不足に悩む中国の農村へ転売されるケースが増えているとも聞きました。
(ドリームトレインを映写)

そうしたエイズ孤児たちの人身売買を食い止めるために、日本の『ジャパンハート』というNPOがヤンゴンの郊外にエイズ孤児たちを引き取って育てる孤児院を作りました。
こちらの方へのご支援も、よろしくお願いします。
(孤児たちを映写)

右の女性が園長先生、左がこの孤児院の設立に尽力したジャパンハートのミャンマー人スタッフのトゥザさんです。
(給水塔を映写)


外には子供たちの洗濯物がたくさん干してありますが、こうした洗濯や水浴び、飲食などのための給水塔を私が寄付いたしました。
(サイカーを映写)

今、日本は経済の低迷やエネルギー問題からイジメによる自殺など人間関係に至るまで、いろんな面で行き詰ってきております。
もはや一国だけでは成り立たない時代なのです。
ミャンマーのような日本に大変友好的で、これからの発展が期待される国と密接な協力関係を築いて交流していくことが、日本の社会に蔓延している閉塞感を打開する道であると思います。
これで私の卓話を終わります。
本日はご清聴いただき、誠にありがとうございました。
「もう2日も書いてないじゃないか!早く何か書け!」という催促なのでしょうか?
決してさぼっていたわけではなく、こんな長い記事を書いておりました。
・・ということで、以下は身内同士の業務連絡になっております。m(_ _)m
毎週水曜日は豊田東RC(ロータリークラブ)の例会です。
お昼に豊田キャッスルホテルの宴会場に会員の皆さんが集まって一緒にご飯を食べながら交流を深めます。
食後のひと時、13時から30分間、会員が何かお話をする「卓話」という時間があり、今日は初めて私の番が回ってきました。
その卓話を録音しておいて新入会員の人がRCの会報用の原稿を書くのですが、これが結構大変な作業なのです。
私も新入会員の時に2年間その役を担いましたが、卓話をする人が原稿を作っておいてくれるとどんなに助かったことか。
その経験から私も原稿を書きましたので、会報委員会の人は以下の原稿をコピペして会報を作ってください。
優しい先輩だなぁ σ(^-^;)
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皆さんこんにちは。
今日は「ミャンマーの教育支援活動」と題して、各RCがミャンマーに寄付した学校や図書館を実際に見てきましたので、そのお話をしたいと思います。
まず、その前にミャンマーという国についてからお話しましょう。
(東南アジアの地図を映写して)

ご覧のとおり東はタイ、北は中国、西はインドと国境を接するインドシナ半島の一番西にある国で、『ビルマ』という古い名前の方が我々の世代にはなじみがあると思います。日本で『ビルマ』と呼ばれているのは、江戸末期にオランダ語からきたといわれています。
(拡大の地図を映写)

こちらのマグウェという町とシュウェボという町に、岡崎城南RCが寄付した図書館があります。
それと、このプロームという町には京都紫竹RCが寄付した学校があります。
あと、2005年までミャンマーの首都だった、ミャンマー最大の都市ヤンゴンの郊外には〇〇RCと△△RC(例会の卓話では名前を言いますが、クラブの名誉のためネット上では匿名にいたします)が共同で寄付した学校があります。
ヤンゴンは昔の『ラングーン』ですね。
そして私が寄付した学校は、この『ラングーン』から西へ車で4時間ぐらい行ったタンビングウェイという農村にあります。
ご存知のようにミャンマーは、あのアウンサン・スー・チーさんを自宅に軟禁した悪名高き軍部による独裁体制が長く続いてきたわけですが、昨年総選挙で新しい大統領が選出され、民主化へ大きく舵を切りました。
それを機に各国の企業が人件費の安いミャンマーへ進出してきており、日本も玄葉外相がミャンマーを訪問して経済協力関係を取り決め、現在このヤンゴンから首都のネーピードーへ新幹線を建設する計画が進められています。
(新幹線の新聞記事を映写)

これは初代の新幹線ですね。
ずいぶん古い写真を使ったものですが、しかし我々も新幹線と言えば、やはりこの車両を思い浮かべますよね。
このように人は最初の印象というのが心に深く刻まれるもので、長くイギリスの植民地支配を受けてきたミャンマーの人たちにとって、先の大戦でそのイギリス人を撃退してくれた日本人に今でもとても好意を持ってくれています。わずか1,2年で連合国に反撃され、結局は負けたわけだし、約束していたビルマ独立への期待を裏切られ、アジア解放を掲げていた日本の戦争の大義に疑いを持ったスー・チーさんのお父さんのアウンサン将軍たちも、ついには連合国側について日本軍と戦ったわけですが、それでも自分たちを抑圧し続けた白人と戦ってくれたという日本人への第一印象は今でも変わらないようです。
(メリーゴーランドを映写)

これはヤンゴンの遊園地なんですけど、電力事情が悪くよく停電するために、ほら見てください、お兄さんがメリーゴーランドを引っ張っています。
電力の安定した供給がないと、さすがの新幹線も立ち往生してしまいます。
民主化になって外国企業が進出してくるためには電気などのインフラ整備が急がれるわけですが、ここでも日本の企業が活躍するようです。
ミャンマー人の日本への信頼と期待はとても大きいようです。
(日本の中古バスを映写)


ヤンゴン市内にはこのような日本の中古バスがたくさん走っています。やれ名古屋の市バスだの名鉄バスだの滋賀観光だの富士急行だのと、日本中のバスが見られて道端に立っているだけで楽しいですよ。
バスの正面に行き先が書いてあるから、それでわかるからいいと、日本のバス会社の名前なども消さないでそのまま走ってます。日本語が書いてある方がおシャレなんですって。
(バス内の表示を映写)


こういう日本語の表示もそのままにしてあるところにもミャンマー人の日本好きが表れていますね。
それにしても、これらの中古バスもかなり傷んできているので、今回日本から新たに3000台のバスを輸入する計画だそうです。料金システムも日本のプリペイドカード方式を採用するそうなんですが、そうなると車掌さんたちが失業してしまいますが、どうなるんでしょうか?
(消防車を映写)

これも日本の中古の消防車ですね。
(営業車を映写)


ほかにも日本のいろんな会社のトラックや営業車が走っています。
(ミャンマー料理を映写)


こんな感じでミャンマーの料理は中華とタイとインドのカレーのチャンポンみたいな感じです。
(カウスエを映写)

これは米粉の麺、いわゆるベトナム料理のフォーみたいなものですね。
(セミのつくだ煮を映写)

ミャンマーの珍味と言えばセミのつくだ煮なんてのもありますよ。
(動物園を映写)


象と言えばタイというイメージがあると思いますが、実はミャンマーの方が数も多いし、今でも山から材木を運び出すなど林業の大切な労働力として働いています。
(日本人墓地を映写)




そしてミャンマーへ行ったら忘れてならない場所がここ、日本人墓地です。
先の大戦、いわゆる大東亜戦争で20万人近い日本軍兵士がこの国で亡くなりました。
戦って亡くなったのならまだしも、多くは餓死やマラリアなどに感染しての病死でした。
あの『インパール作戦』のように補給路を確保しないまま実行された無謀な作戦による犠牲者たちが眠っており、毎日、地元の方たちが墓地をきれいに掃除して管理してくれています。
(祠を映写)

日本人墓地はヤンゴンだけでなくミャンマー国内のあちこちの町にあり、田舎の方でも行き倒れて亡くなった日本兵を祀ってこのような祠が建てられています。
(祠の中を映写)

これは、その日本兵が持っていた短剣だそうです。
(マグウェの図書館を映写)



さて、前置きが長くなってしまいましたが、こちらがマグウェ第1高校に岡崎城南RCが寄付した図書館です。
岡崎城南RCの会員にキョー・キョー・モーさんというミャンマー人のお医者さんがおられ、このマグウェ第1高校はその方の母校だということで図書館の寄付が実現したそうです。
同じような図書館をほかにも4か所寄付しているそうですが、シュウェボは遠かったので見に行きませんでした。
だいたいひとつ造るのに4000ドルかかるそうです。
(記念写真を映写)

私の左が校長先生、右が教頭先生です。
(ソケヤ寺子屋を映写)

こちらはプロームという町にあるソケヤというお寺が運営している寺子屋です。
校舎を寄付してくれた日本のRCの人が来ると言うので、生徒たちがみんな道の両側に並んでのお出迎えを受けました。
寄付した京都紫竹RCとは別のクラブの会員だと言っても、そんなRC内部の詳しいことは彼らには関係ないですからね。
(新校舎を映写)



こちらが京都紫竹RCの寄付により建てられた校舎です。
日本ミャンマー友好協会が仲立ちとなり、新校舎建設のために京都紫竹RCから1万ドルが寄付されたのだそうです。
現場から学校建設に必要な費用の見積もりを出させるのではなく、このようにはじめから寄付金の額を決めておいて、その範囲で作らせるというのも一つの方法です。
しかし、それだと満足な校舎を作るには資金が足らず、現場に負担をかけさせる結果になる事もあります。
この校舎も天井と床がありません。
ミャンマーの3月から5月頃は「暑い季節」と書く暑季で、日中は気温が40度を超えます。天井を張らないと熱く焼けたトタン屋根の熱が直接子供たちの頭上に降り注ぎ、かなりつらい思いをしながら勉強しなければなりません。また6月から8月頃の雨季には毎日雨が降るので、床を張らないと足もとが泥だらけになってしまいます。
(記念写真を映写)

私の右のお坊さんがこの寺子屋を開設された方です。
このお坊さんが学校に行けない貧しい家の子供たちを集めて木の下で読み書きを教え始め、ご自身は一日2食しか食べず、毎朝の托鉢で集まった供物をコツコツと貯めては少しずつ教室を立てていったそうです。
やがて、そんなお坊さんの努力に心を動かされた市民からの寄付で校舎が造られ始め、市民と日本のロータリークラブの協力により、現在生徒数410名、教師13名の大きな寺子屋になりました。
(造りかけの校舎を映写)

こちらの校舎は資金が足らずまだ造りかけですね。
ここまで出来ていれば、あと2~30万円もあれば完成すると思うんですが、どなたか寄付なされませんか?
(先生たちを映写)


先生は市内から一般募集した高卒以上の独身女性にお願いしているとのことです。
給料は1ヶ月20000チャット(約2000円)と少ないので、皆さん学校へ行く前に早朝マーケットで野菜などを売り生活費の足しにしているそうです。
(タンビングウェイ小学校を映写)


はい!お待たせいたしました。こちらが私が寄付したタンビングウェイ小学校です。
(サイクロンが通過した地図を映写)


2007年に完成したのですが、翌2008年にこの地域の台風であるサイクロンの直撃を受けました。しかし現地の大工さんがサイクロンにも負けないように頑丈に造ってくれたため無事でした。
あの時は家を失った被災者たちの避難所としても大いに役立ちました。
(マヤングウェイ中学校を映写)


こちらは隣の村の中学校です。
先ほどの造りかけの校舎のようにこの中学校も未完成だったのですが、私が50万円寄付して完成させました。
校庭で生徒たちが椅子を囲んで座っていますが、私にここに座って日本の歌を歌えというわけです。
ちなみに、『北国の春』、『昴』、『乾杯』、この3曲はミャンマー人なら誰でも知っています。
(校舎内を映写)

このように天井と床を張れば生徒たちもいい環境で勉強できますね。
(パダウッミャイン僧院学校を映写)

そして、こちらがヤンゴン郊外にある〇〇RCと△△RCが共同で寄付したパダウッミャイン僧院学校です。
私が寄付した小学校とだいたい同じ大きさですから、私が寄付した建設資金が約1万5千ドルだったから、ここもそれくらいかなと思ったら、なんと2万2千500ドルだそうです。
寄付したこのふたつのRCは7000ドルぐらいボラれていると思います。
この学校を運営しているお寺のお坊さんの話では、ソケヤ寺子屋のお坊さんと同じように毎朝の托鉢や地元の人たちからの寄付で寺子屋を運営していたところへ、地元の教育長から日本のRCによる援助の話があったのだそうです。日系企業に勤める教育長の友人が仲立ちしたらしいです。
新校舎の建設に関しては、お寺側は「それでは、よろしくお願いします」ということで丸投げしていたのでお金のことはわからないとのことでした。
こういう援助詐欺を防ぐためには、京都紫竹RCのように初めから援助金額を決めておくというのも一つの方法ではあると思います。
しかし、そうなると先ほどもお話ししましたように必要な規模の校舎と、やはり必要不可欠な井戸まで決まった寄付金の中から作らなければならず、足らない分は学校を運営している人に負担させてしまうことにもなりかねません。
必要な物のリストを書きだした見積書を提出させたとしても、ミャンマーについて無知な日本人には水増しされていてもなかなか不正が見抜けません。そのあたりが海外援助の難しさです。
(ミマを映写)

RCによる教育支援活動の話はここまでにして、もうひとつ聞いていただきたい話があります。
この少女はミマと言います。これは10歳の時の写真ですが、今はもう12,3歳になったと思います。
両親はエイズに感染していて、お母さんはすでに亡くなっています。
ミマはタイ人のブローカーに買い取られタイへ連れて行かれて、今は行方が分かりません。
(お父さんとソーを映写)

この男性がお父さん、左の少女はミマのすぐ下の妹のソーです。
(チヤとブリーを映写)
右が三女のチヤ、左が四女のブリーです。
お父さんの話では自分たちがエイズに感染して働けないので長女のミマを知り合いに預けていたら、タイのブローカーにさらわれてしまったなどと言っていますが、いくら貧しい田舎でも子供が突然誘拐されれば騒ぎになります。騒ぎにならなかったのは、このお父さんが下の子供たちを養うために長女のミマをブローカーに売ったのでしょう。周囲の人たちもそれを知っていたから騒ぎにならなかったのでしょう。
今、ミャンマーではエイズの感染が広がっていて、それで親を亡くしたエイズ孤児たちがタイに売られていくという問題があります。
男の子は安い労働力として工場などで働かされ、女の子は小さい時は家事手伝い、13,4歳になれば売春をさせられます。最近は嫁不足に悩む中国の農村へ転売されるケースが増えているとも聞きました。
(ドリームトレインを映写)

そうしたエイズ孤児たちの人身売買を食い止めるために、日本の『ジャパンハート』というNPOがヤンゴンの郊外にエイズ孤児たちを引き取って育てる孤児院を作りました。
こちらの方へのご支援も、よろしくお願いします。
(孤児たちを映写)

右の女性が園長先生、左がこの孤児院の設立に尽力したジャパンハートのミャンマー人スタッフのトゥザさんです。
(給水塔を映写)


外には子供たちの洗濯物がたくさん干してありますが、こうした洗濯や水浴び、飲食などのための給水塔を私が寄付いたしました。
(サイカーを映写)

今、日本は経済の低迷やエネルギー問題からイジメによる自殺など人間関係に至るまで、いろんな面で行き詰ってきております。
もはや一国だけでは成り立たない時代なのです。
ミャンマーのような日本に大変友好的で、これからの発展が期待される国と密接な協力関係を築いて交流していくことが、日本の社会に蔓延している閉塞感を打開する道であると思います。
これで私の卓話を終わります。
本日はご清聴いただき、誠にありがとうございました。
Posted by しょうのみ at 14:13
│日記