昨日の法事では母と妹、そしてお手伝いに来てくださった妹の友人の方が、お茶や茶菓子などを出す裏方仕事に奮闘していた。
母と妹の法事の準備への情熱はただならぬものがあった。1か月前から庭師を呼んで庭をきれいに剪定したり、ハウスクリーニング業者を呼んで家の中もピカピカにしたり・・。
女性はどうしてこういうイベントになると、ああ燃えるのだろう?
【冷蔵庫に貼られた法事当日のスケジュール表】
昔、同じように多くの女性たちが準備に燃える姿を見たことがある。
埼玉県大宮市の
ストリップ劇場で性搾取されているフィリピン人女性の現実を知り、何かできないかといろんな海外援助している団体(NGO)に首を突っ込み、どこも資金不足で思うように活動できないでいるので経済支援するために豊田へ戻り家業を継いだ。
当時はまだNPO法人などという制度はなく、名古屋でも「フィリピンの民衆と連帯する会」だの「アパルトヘイトに反対する市民の会」だの、数人規模の小さなグループが自分たちを勝手にNGOと称していた。
そうした小さなグループが集まって、自分たちの活動を広く世間に知らしめ、賛同者を増やし、それぞれの活動を広めていくためのイベントを企画した。
それが1993年5月3~5日に瀬戸市定光寺の労働者研修センターで開催された『アジア市民フォーラム'93』である。
フォーラムの話は長くなるので・・って言うか忘れた部分が多いので割愛するが、参加者に何を訴え、どういう結果を求め、その結果を今後にどう生かしていくのかというイベント本来の目的よりも、いつの間にか女性メンバーを中心に、この2泊3日のイベントを滞りなく見事にカッコよく成功させることに重点が置かれていった。
そして・・・フォーラムの本番は多少の失敗はあったが、ほぼ計画通りに事が運び、3日目のフィナーレではみんな泣きながら成功を祝っていた。
ただ私は何の成果も生まれないことへの虚しさと疲労感だけで、とても泣く気にはなれず、同じようにこき使われただけで得るものがない虚しさを感じていたある若者と二人で片付け仕事をした後、一緒に食事をして別れた。それでおしまい・・・
今、「アジア市民フォーラム」と打ち込んで検索しても何もヒットしない。
わずかに
開発教育協会の機関誌26号で、当時フォーラム準備事務局を担当していた女性がそのイベントのことを書いているのと、
瀬戸地下軍需工場跡を保存する会の「会のあゆみ」の中で15人のフォーラム参加者が瀬戸市内の地下軍需工場跡を見学したとあるぐらいだ。
県から多額の助成金を受け、1年以上前から何度も集まって準備し、海外からも何人ものゲストを招き、延べ何百人の人間がかかわったNGOの一大イベントは跡形もなく消えた。
法事は家と家との付き合いの場であり親類縁者が集う交流の場だから、見栄や形にこだわる女性たちの努力にも感謝こそすれ否定はしない。
しかし、貧困や差別に苦しむ貧しい国の人々を支援するためのNGOが、国内の自分たちのイベントの成功ばかりにこだわるのはいかがなものだろう?
当の貧困や差別に苦しむ人々にとって何の恩恵があったのだろう??
皮肉にも、そんな私が中日新聞から取材を受け、アジア市民フォーラムの中心メンバーとして紹介されて一躍有名人になってしまった・・・